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気まぐれな日記
気まぐれに書き留める写真付き日記です。

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早すぎる退職2022/03/31(木曜) No.585

 昨年7/Eの退職から、コーディングブートキャンプ(〜2021/12)、アントレプレナー養成講座(〜2022.2)と高松に通っていたが、それが終わり、家でいる時間が多くなり、どうも家族の風当たりが大きい。

また、年金ももらってないし、失業保険も切れたんで、なにか趣味と実益を兼ねるような仕事がないかと探していると、時々通っていた車で15分くらいのところにある私立大学図書館が、司書のような仕事で募集していることを知った。
 1人の募集で3人の応募があったらしいが、オンライン面接をして通ってしまった。それが1月の末、2月7日から行くことにした。

 給料は安かったが、仕事は楽しかった。唯一の問題が、館内が暗いということ。
毎日、図書の背表紙を見てるが、だんだん見にくくなってきた。度数ではなく、疲労である。特に暗いと顕著。
3週間ほどしたら、半分は読めない。これでは仕事にならないので3月末で退職することにした。
勤務時間、通勤時間も短く、家族の文句もなく、図書に囲まれる仕事は悪くなく、というか良かったのだが、大変残念である。



瀬戸内チャレンジャーアワード20222022/03/05(日曜) No.584

 2月の20日にアントレプレナーの発表会で最優秀賞をもらい、引き続きチャレンジャーアワードに出場。
一昨年の、ビジネス&パブリックコンペ、それに続く政策提案プレゼンとは今回とタイトルが違うが、緊張感が癖になる。社内プレゼントは全く違う。
皆さんのようにうまく喋れないものの、終わった時の心地よい疲労感は、昔やっていたマラソンやトライアスロンとはちょっと違うが、癖になりそう。

 今回は、Setouchi-i-Base賞ねらいであったが、なんとグランプリまで頂いてしまった。
老後の暇つぶしと考えていた事業ではあったが、まじめにしないといけない。

 ただ、このような大会に思うのは、出場している若者は実に頼もしい。
私も在職中には、やってみたいことはあったり、私のアイデアを応援して事業化を進めてくれるコンサルトさんとかいたが、実際は定年まで働いた。
 さて、今からが真価が問われるところ。有言実行あるのみ。

https://www.youtube.com/watch?v=6QuDoMy4UtE (1時間40分くらから)



MTK大忘年会2021/12/04(土曜) No.582


コロナもオミクロン?株で出てきたものの小休止の最近、2年ぶりにMTK(ミザールさんの忘年会)に参加してきた。
 12月4日、12月の第一週の土曜日。在職中時代なら、某協会の幹事会・総会が金曜日にありその足で向かったのが、7月末の退職、その後コーディングブートキャンプ、ビジネスコンペの〆切が12月3日と忙しくしていた一連の多忙な日々の最後となった。

現在、妻が働いているのに、私はプーというか失業保険を貰って状況では、肩身が狭い遠征です。そんでもって昨日まで、ビジネスコンペの資料をつくっていて、全く忘年会の余興?の準備も、できないまま出発となりました。

細かいことを言うと、実は案内は相当前に頂き、行くことに決め、早めがお得と思いJALパックを予約しました。が、その後に締め切りが12月3日のビジネスコンペに参加が決まり、前日出発の予約を取り消し変更しようとすると。なんと、JALパックのルールが変わり、一度予約するちと、直後からキャンセル料が発生。4000円は痛い。
結局、土曜朝一出発。日曜最終帰着(多分、東京の人から見るといちばんつかえない便)の一番安い便を選んで、一泊ホテル付き航空券キャンペーン使って24,000円で再予約。

前振りが長くなったが、京都が無くなった代わりに、4日当日会が始まる時間とバッティングし、天体望遠鏡博物館の例会も始まる。ミザールさんの一室をお借りして、会議した。思わず伸びて、MTKの初めの方に参加できなかった。残念。


2021/12/08(水曜) No.583

多分、望遠鏡に関してもっともディープではないかという、忘年会が終わった。
 T先生のKAGEYAMAスコープ(国際宇宙科学センター)の日食?アイピースに、N先生のレリア6cm屈折経緯台とミランダのお話。Y君のミザール愛も振り切ってます。

まず。N先生のレリア光学。ヒポさんから5cmの寄付があって天体望遠鏡博物館に1台のみ展示。毎月、天文雑誌の一等地ページに広告を載せていたレリア光学、服部時計店。
謎のメーカーであって、ヒポさんの望遠鏡を見るまでに一度も見たことが無い望遠鏡でした。ただ、5cmに比べ、上位に当たる6cm屈折経緯台。見た感じのクオリティが、そこらの望遠鏡とは別格。
 戦前のロングトム(日本光学nikon10p屈折経緯台)やその先生のツアイスにもひけを感じず、水平・高度全周微動のフォーク式経緯台は、ヘタな赤道儀に比べてもコストがかかってそう。
 ミランダの話も面白い。変わったカメラの話から、それを作った人々、その技術。それと関係した双眼鏡、望遠鏡の話。ポケットの多さと、視点が私も含めた多くの方々と違います。研究者の目線です。

 T先生のKAGEYAMAスコープ。 天体食観測特殊レンズ KH-EA-2。
真珠のような半球体のものをガラス面に接合させ、それをソーラープロミネンスアダプタのオッカルティングディスクの代わりにする感じです。どうもこの真珠色と半球面という形状が、反射光が黒い太陽の周りに出て、日食の感じを醸し出すにではないかと思いますが、これを狙っていたのなら確信犯として、いいアイデアだと思う。
どっちみち、怪しいものなので、事実と違うなどと正論で切り込むようなものでも無いようだし。
先生曰く、望遠鏡は何でもよく、「天体食観測特殊レンズ KH-EA-2」がついていた望遠鏡を「KAGEYAMAスコープ」と呼んでいたのではないかと。 たしかに。

Y君のミザール愛もすごい。初めて会ったのは小海だったが、ミザール65年史を作ったのは若干20歳大学生のY君だと、初めて知った。ファインダーのスタイルによって、H-100等の望遠鏡の年式の見分け方や、他の夫々のモデルのディテールの違いなど、さすがである。
 また、プレゼンも面白い。「川崎天文同好会で一番若いのは僕です。…。二番目は、私の母さんです」という、間の取り方も合わせて“つかみ”もうまい。伝説の某氏宅への訪問記を、写真が無い所、大部分をイラストで、いたネコの絵とか、どうでもいいことを間に挟むところもうまい。将来希望の星、ミザール?になりそう。うちの会にも欲しい。



北八ヶ岳・小海 星と自然のフェスタ20212021/11/12(金曜) No.577

 事前にいろいろ相談した結果、直前に3名で出発と決定。
K先生(T大名誉教授)、H氏(天体写真の名手)と、私が一番若い構成。
まあ、コロナ明けの遠征、皆さん家族サービスとか自由に旅をしたいということで、今回6名参加予定。他の方は、現地集合。
私が選んだ宿は蓼科パークホテル。2食付き(割引クーポン込)約8000円は、お得。

 おじさんばかりの道中も楽し。暗くなるころには到着。
外観が巨大。下からホテルまで屋根付きエスカレーター(現在停止中?)、コテージっぽいたくさんの別棟から、教会迄ある。バブル時代に遺産?
償却は終わっているものと思われるが、維持だけでも心配である。よく生き残ってくれていると感心する。
 でも、露天風呂も含め大満足。食事も満足でした。


蓼科は紅葉2021/11/13(土曜) No.578

 翌朝の散歩。すでに終わりかけている紅葉。なんとか、蓼科は残っておりました。それより上は、すでに終わりかけておりました。
 
ホテルの近くに「乙女の瀧」。絵になります。
朝から、食事も豪華。


麦草峠2021/11/13(土曜) No.579

 一部凍った麦草峠をスノータイヤながら、慎重に越え、また鹿にも遭遇したりで、私の手にも力が入る。11月17日より通行止めとのこと。
  途中の展望台からの景色も素晴らしい。


到着です2021/11/13(土曜) No.580

 快晴の中。着くといつものお仲間は、すでに到着。店を広げておりました。
 前回の大会に比べ、少しショップは少ないかもしれませんが、今年満足に開催された大会は、ここだけという事で、たくさんのお客さん。

TANZUTSUマニアのいご夫人ともお会いし、話が弾む。
残念なことに、コレクションは家族の手前もあって放出。ただ、まだe-Bay等は気になって仕方が無いとのこと。嬉しい(写真無し)


さて本番2021/11/13(土曜)〜14(日曜) No.581

到着して。
「あれ?!」CX-150の鏡筒バンドが無い!
あわてて準備していて、ギリギリで鏡筒を取り替えた時に忘れてしまいました。残念!

他、感想を書き記します。


・雲一つない秋晴れで、空気が澄んでいる感じ。
・MATのブースにもたくさんの人が来訪した。天体マニアの人が多い感じであったが、そうでない人もかなりいた(特に親子連れ)。マニアの中でMATに来たことのある人はあまり多くなかったが、名前を知っている、或いは、MATのHPを見ているという人がかなりいた。来訪したことが無い人たちには、香川県の案内(うどん県、来年の瀬戸内国際芸術祭、栗林公園等)と併せて、地図上で位置を示しアクセス方法等を案内した。
・観望用望遠鏡(ミューロン250+EM200赤道儀)にも多くの人が来て、昼間の金星、夜間の月、木星、土星、金星等を観望した。多くの一般の人たちは、金星のかけている像、土星の環、木星の縞模様など、本で知っているものを実際に自分の目で見て、感動の声を上げていた。
・天体望遠鏡博物館には来場したことがある、という方も少なくなかった一方、存在自体知らないという方もたくさん。知らなかったが説明を聞くと行ってみたいと言って頂いた方も多数おり、出店効果はあったものと思われる
・会員の竹田さんが望遠鏡を持ってきて、観望会で大活躍された。
・会員の後藤さん(五藤光学さんに非ず)も最新のEV-scope(本邦、初披露?)で注目の的であった。  



退職しました。2021/07/30(金曜) No.576

今日で、約40年働いた会社での最終日になりました。
思えば、いろいろありました。


**今思うと喜怒哀楽 楽しい会社生活でした。

入社後、研究開発部門で1年半の後、半導体工場で17年、実験と解析の日々でした。
当時LSIの高集積化の黎明期から発展期、300〜500工程を超えるウエハ工程

新プロセスを前に、三菱電機の同世代の若いエンジニアと実験結果に一喜一憂。
他社製品の解析結果に驚き、世界中の最先端技術の情報に、今世界と戦っているのだと思いに、強烈なプレッシャーとともに充実した毎日でした。

次は半導体テスト装置の設計開発課長に命じられました。半導体テスト装置は半導体の動作を先回りする為、専用ICを設計し、40層を超える最短経路での基板。ほとんどがロジックで組まれるものですが、私自身は、半導体試験装置の電子回路設計の技術、スキルがなく、
また、大企業のバックアップがあったものの、世界をまたにかける専業メーカーとの技術レベルの差も感じ、大赤字を取り繕うのにも苦労しました。
部下を遅くまで働かせるのもつらく、この5年間は暗い日々でしたが、
同時にものづくりの難しさと楽しさを勉強させていただきました。

環境/化学分析部門で12年、電気計装部門で2年(主に事業企画)。
化学という異世界?に入りました。
初め、独立会社のような雰囲気と、独特の事業環境を理解するのに5年以上かかりました。

ただ学生時代から、町の発明家、今風に言うと人々にソルーションを提供すること

目指し入社し、最後の十数年でやっとそれができる環境にたどり着
いたと感慨深いものでした。
事業としては、結局「ステークホルダーの満足が私たちの存在意義」という初心を
思い出し、仕事を増やし関係社員を増やす方針を唱えましたが、結局その思いは退職後の自らの目標となりました。
成果は全くと言っていいほど残せませんでしたが、私にとって自己実現に目覚めた最後の会社生活が送れました。



**今後

 退職後は、5年前に友人らと立ち上げた(一社)天体望遠鏡博物館の運営と、百姓(趣味)は当然として、漠然とPC一つの個人事業主、ノマドワーカーを目指しております。
今まで無かったタイプのECサイトを立ち上げようと、7月からプロ養成のプログラミング教室に最年長として参加、Macbookを前に四苦八苦。創業塾や英会話教室にも通っており、サンポート(i-base)
あたりをうろうろしております。

 死を前に最後の言葉が、「いい人生だった」というのではなく、「もっとしたかったことがあったのに、人生は短すぎる」といえる残り人生を送りたいと考えております。



冬の青森旅行2020/03/4(水曜) No.573

不要不急の外出は控えないといけない時に、みなさんには申し訳ございません。
これまで頑張って貯めたマイル。JALの「どこかにマイル」ってサービスで妻と2人、伊丹〜青森の航空券をもらって、休みがとりにくい妻が3/4から3日間休みをとって、いくぜ!となったのが1月。
旅行好きの我家。昨年長女と次女が青森に一週間近く滞在。話を聞いて青森。それも雪があるシーズンもいいかと、妻は初めて、私は約40年ぶり。

ここ迄コロナウィルス非常事態になるとは思ってなかったですが、キャンセルしても帰ってこないシステムと、青森も香川もこの時点では、感染者0ということで、迷いましたが出発。

案の定、ガラガラ2−3割の小型機で出発。
飛行機が青森で降下して、雲の下でやっと見えた風景はモノトーン。
まずは、娘らお勧めの「味噌バターカレー牛乳ラーメン」だったっけ?
コテコテな名前程、くどくなくて美味い。うどんの店は少なくラーメン文化圏に来たことを感じる。
さて、今日の宿は奥入瀬。夏に来たことはあるが、冬はどんなだろう。
レンタカー(マーチ、もちろんスタッドレスタイヤ付き)でまずはアイスバーンを十和田湖へ。
あちこちで通行止めだが、なんとか生活道路としては繋がっている。
それにしても、こんな雪道を走るのは、昔スキーや冬山登山をしていた時から20年以上走ったことが無いような気がする。途中で、試しに急ブレーキを踏んでみる。ぎゅっと止まって優秀。優秀。と思ったら、「怖いじゃないの」と妻の烈火の叱咤。さっきまで寝てたのに。


冬の奥入瀬氷瀑ナイトツアー2020/03/4(水曜) No.574

天気が今一つ。と言っても、この地方は、この季節ずっとこんな感じかな?とも理解しながら早めにホテルに入る。
羨望の星野リゾートの前を通って、半額の「奥入瀬 森のホテル」2食付き1万円強。
我家としてはそれでも頑張った方。でも期待を裏切らないスチュエ―ションと食事。
庶民には過ぎたる贅沢として、フランス料理を味わう。
食事だけで、東京なら宿泊代軽くオーバーかな。と素晴らしい。

このまま、温泉に入って熟睡も幸せかもしれないが、実は、この旅行の目玉として予約していた「冬の奥入瀬氷瀑ナイトツアー」。妻と私、若い?男性グループ3人、合わせて5名を乗せたマイクロバスに、美人のガイド(プロではなさそうな。ボランティア?)さんが一生懸命に説明して頂き、ライトアップの為にライト車同行。すごい贅沢なツアー。
2000円/人は、大丈夫だろうかと心配してしまう程の至れり尽くせり。

夏の奥入瀬とは別の景色。氷瀑も良かったが、雪の渓流が美しい、


前原寅吉の望遠鏡2020/03/5(木曜) No.575

朝、優雅な朝食を頂き、八戸にむかった。

個人的に、この度の最大の目的。というか、青森に行くことが決まってから。そうだ!となった訳ですが、
昔、ハレー彗星騒動の1985-86年。その前の回帰1910年に唯一、彗星の日面通過を観測したという前原寅吉の望遠鏡と、その前原時計店(現在は宝飾店)が現存するということで、八戸に見に行った。
まず、八戸の観光、イベント施設ハッチに望遠鏡を見に行った。写真で昔見た当時の望遠鏡がそのままあった。
次に、宝飾店「マエバラ」。事前にアポをとっていたので、3代目、4代目の方に親切にご説明頂いた。望遠鏡を、詳しく知りたいとお聞きした所、ハッチの同行頂き、近くで見る許可を頂いた。
明治時代の望遠鏡。当時国産メーカーの情報はほとんどなく、舶来品と思われるが、不思議にどこにもメーカーの銘がない。箱も見せて頂いたが無い。ヨーロッパ。特にフランス、イギリス、ドイツあたりの望遠鏡は、接眼部、または鏡筒のどこかに銘を刻印していたものが多いと思われる。それが無いのが不思議で逆に国産か中国製ではないかと、疑われたりする。興味津々の望遠鏡であった。



横浜学園高校さんの歴史的望遠鏡2019/12/09 No.571

 数年前、国立国会図書館で手元にない古い雑誌を眺めていて、ふと見慣れない写真をみつけました。写真のタイトルは「日本最大といわれる反射望遠鏡」。天文と気象1949年5月号。
すでに三鷹の国立天文台にはツアイス社製65p屈折望遠鏡が1929(昭和4)年に導入されていましたが、反射望遠鏡としての最大口径のものは1927(昭和2)年に京都大学に導入されたカルバー社製の46p(当時山本一清博士の田上天文台、現在は天体望遠鏡博物館で展示中)でした。
記事では口径は18inch(47cm)とのこと。18inchは現在では45.72pとなりますが、1inchが2.54pと定められたのは1958年だったので、18inchミラーが47cmで日本最大の反射望遠鏡は、まんざら嘘ではないかもしれない。少し驚いたものです。

実際の望遠鏡との対面

 昭和30年代に私立横浜学園高校に移動されたことは記録により分かりましたが、その後のことについては情報が無く、地理的にも近く、私も会員である川崎天文同好会の重鎮たちなら知っているだろうと聞いてみたところ、今もあるらしいという事が分かりました。
 すぐに横浜学園さんへ問いわせし、事務長さんにお願いした所、快く見学させて頂くことになりました。2017年12月3日、日曜日にも関わらず対応して頂き、感動の体面を果たしました。埃をかぶって下を向いた形にはなっておりましたが、見た瞬間、見事に歴史的な資料と現実が頭の中で結びつきました。今後廃棄されることのないよう、もし仕方なく廃棄する場合は天体望遠鏡博物館にご連絡頂きようにお願いして帰りました。

今年2019年11月後半のある日、突然2年前お願いした事務長さんから電話を頂きました。「先日の台風でドームが破損したので解体して撤去したい。望遠鏡を譲るので持ち帰って欲しい」とのこと。

そして、本日。
関東で存じ上げている皆さんに、緊急のメール。どなたかご協力いただける方はいらっしゃいませんか?
そこで、集まってくれた6人衆。お昼からでしたが、何とか解体完了。


みなさん、ありがとうございました。 そこで望遠鏡の歴史 No.572

みなさん、ありがとうございました。

現物の詳しい調査はできておりませんが、とりあえず残る歴史を紐どいてみました。
さすがにこの口径の望遠鏡については、調べると多くはないですが情報がでてきました。

東亜天文協会(現、東亜天文学会)機関誌「天界」1935年2月号(No15(167)、190-192)に、
「六甲星見臺の萑部氏の新反射赤道儀」木邊成麿という製作記を見つけました。
 1934(昭和9)年 春 萑部(ササベ)氏宅に英国よりリンスコット社製18インチ(46p)ミラーが到着
7月末 木邊氏(当時22歳)に相談。
8月 口径31pFl=240pの反射望遠鏡製作することに決め、木辺氏に依頼。
12月末 暫定として口径26.5pFl=209pのミラーを組みこんだ反射望遠鏡が完成
(但し31p鏡筒への交換の記録は未確認)、ミラー以外は西村製作所製 
  1935(昭和10)年 本格的に使用開始
 それに先立ち自宅横に六甲星見臺という観測場所を1933(昭和8)年頃完成させていたようです。

 当時神戸にはスコフィールド氏や改發氏、射場氏という著名なアマチュア天文家がすでに天文台を構えておりました。世界の趨勢はすでにガラスミラーの反射望遠鏡の時代に移っていたにもかかわらず、国が育てた光学技術は日本光学他の屈折望遠鏡であり国立の天文台は屈折望遠鏡に拘り、反射望遠鏡はアマチュアの天文家のものでした。1932(昭和7)年の天文年鑑では、エリソン、カルバー等に加え、1930年神戸の射場氏がリンスコット製31pミラーを組み上げております。1934年天文年鑑(東亜天文協会監修)では、主な天文台とした23の中に私立と思われるものは6、その半数の3が神戸にあったということで、貿易で栄え裕福な町であった神戸には、天文のコミュニケーションが盛んに行われ、萑部氏も射場氏の望遠鏡を参考にしたことは想像に難くありませんでした。

 萑部氏については、「日本アマチュア天文史」(日本アマチュア天文史編纂会編、恒星社恒星閣、1987)や「続 日本アマチュア天文史」(続日本アマチュア天文史編纂会編、恒星社恒星閣、1994)に度々登場いたします。
 萑部進氏、守子氏共に天文学を趣味とし、望遠鏡製作当時進氏は東亜天文協会(現東和天文学会)の掩蔽課に属し、守子氏は遊星面課(後に掩蔽課)に属しており、熱心に観測した記録が残っております。
website天文古玩の角田氏の調査によれば、萑部進氏は東京高商(現一橋大学)を出て、三井物産に入社。イギリス等海外赴任を経験後、船舶部遠洋掛主任。昭和11年には船舶部部長代理となり、昭和3年時点ですでに会社員ながら所得税の高額納税者として紳士録に名を連ねていたというエリートサラリーマンだったとのことです。趣味は音楽と天文学、守子氏ともに島根県出身で、お二人の希望で自宅隣に六甲星見台を1933(昭和8)年に作り、1935年当時は進氏43歳、守子氏37歳、一男二女に恵まれ、忙しい業務や子育ての間に六甲の高台より音楽に包まれ星を見る優雅な趣味の時間を楽しんでおられたようです。

 特に、望遠鏡が完成した翌年1935(昭和10)年は、この新しい望遠鏡を使って進氏、守子氏ともに火星のスケッチや、変光星の観測記録を東亜天文学会に数多く報告いたしておりました。ただ、1936(昭和11)年以降の記録は無く不穏な空気が渦巻く戦争前、戦中、戦後にどのように生き、六甲星見臺がどうなったかは、知る由もありません。

 一方、望遠鏡についてですが、リンスコット製の18inchミラーのニュウトン式反射望遠鏡にレイの6inch屈折望遠鏡が同荷されているはずです。
リンスコットに関しては天界(1926)、6(68)、反射望遠鏡の来歴(二) 中村要、P488に以下の記載があります。
素人界 近年に於ける英国反射望遠鏡
英国に於て反射望遠鏡は最もよく普及し素人の器械として最も活用されて居るがカルヴァーの優秀なる技術の為カルヴァー独占の様な感があり製作者の名前は出てこない。1900年以前に於てはJones或いはLinscott等が知られ殊にリンスコットの鏡は1910年頃まであり19吋まで現在でも可なり古物がある。この頃の望遠鏡會社Wood、Horne and Thornwaite等からも廣告され     たが現在(1926年時点)では全く姿が無い
 同じく19世紀の英国天文界に詳しい角田氏の調査によって、19世紀中ごろ反射鏡が金属鏡からガラス鏡となりその初期に活躍した有名な鏡面製作者のウィズ(またはウイス、George Henry With)が引退した後、その用具一式を買い取って鏡面製作を始めたのがリンスコットではないかとのこと。

 戦後においては、毎日新聞横浜版1958(昭和33)年1月19日にあるように、昭和24年春に横浜市に買い取られ横浜市で開かれていた「日本貿易博覧会」(1949(昭和24)年3月15日〜6月15日)に展示されたというが、天文と気象1949年5月号の写真は、五藤光学研究所で調整中のものを3月19日に撮影されたもので、その時点で六甲星見臺の萑部氏の26p反射赤道儀は、リンスコットの18インチ鏡筒に挿げ替えられていたことになる。横浜市に買い取られてのは昭和24年春で、3月19日に18インチ鏡筒が載っていたのなら、そんなに短期に鏡筒ができないので、それ以前にすでに18インチ鏡筒がついていたものを購入したというのが考えやすく、ただそれ以前のいつ鏡筒交換したかは情報が有りません。
 貿易博覧会には第一会場(野毛山会場)と第二会場(神奈川会場)があり五藤光学研究所で調整された後、第一会場にできた天文館に持ち込まれた。

博覧会終了後は、野毛山会場は遊園地となり天文館はそのまま施設として維持されたが、それもつかの間、1955(昭和30)年10月閉鎖さました。

その後のお話は、(ちょっと間違ってるとこありそうですが)新聞にありました。
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きのう横浜学園へ 屈折式に直せば日本一の折紙 生徒の観測に再び陽の目

この望遠鏡は大阪のあるデパートで売りに出ていたのを去る24年春、市が修理費とも約百万円で購入、同年開かれた貿易博覧会に展示物として出したあと26年4月野毛山遊園地が開園と同時に園内の天文館に納められ小、中、高校生や街の天文愛好家たちに主として塀援護の夜間に利用されていたもので、カールツアイス製の鏡面をもった十八インチのニュートン式反射望遠鏡と六インチの屈折式の二基があり、反射式の方は屈折式にしたら日本一であるとまで折紙がつけられている。
ところが宣伝せぬまま次第に利用者が少なくなると市では維持、管理上面倒であるとして三十年十月にはこの天文館を閉鎖してしまった。そして閉鎖後の同館は隣接の天文参考館ともどもたびたび盗難にあって幾多の望遠鏡の部品のほか参考品もなくなり、雨漏りまではじまる始末。
やがて昨年7月からの国際地球観測年が始まる前後からこの死物化した天文館をなんとかしてはという声が天文愛好家や学園関係者たちの間に起こり、横浜学園では昨年四月市に天体望遠鏡の払下げを申請した。
高校、中学を合わせて女子ばかり約二千人の生徒をもつ同学園には理科教育推進のための新たに鉄筋コンクリート三階建の立派な理科教育館を建てる計画があり、また数年前東京理科大の天文館をつくったという理科の桐山教官がいるので、この理科教育館の屋上にドームをつくり、これにこの天体望遠鏡を収容して天文の特別教室にしようと言いうのだった。
しかしその後、市からはなんの連絡もなく、払下が決まったのは昨年の年の瀬に近いころ。そして手続きその他の関係からきのう十八日はじめて横浜学園への引渡しが行なわれ、横浜学園待望の二基の天体望遠鏡は参考館に残っていた数点の天文資料とともに同日午後三時にはトラックで同学園校庭に運び込まれた。学校では天文館を完成のうえ一般の利用にも供したいといっている。
   横浜学園の話 修理その他に時間を要するし、天文館ができるのは年末ぐらいにあろうが、
小さいほうの望遠鏡は四月の日食観測には使えよう。

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